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2004年9月9日 中日新聞岐阜県版に “木造、ひわだぶき認定”県「原形の復元を優先」 という見出しで以下の記事が載りました。 |
![]() 焼失前のひわだぶき本堂 |
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2005年7月19日 再建委員会が開かれ、本堂・大玄関の再建について話し合われました。 「先づは庫裡の再建に着手し、本堂・大玄関の再建は浄財の集まり具合を見て考えよう」 という見解で今迄は進んできました。 ところが・・・・ 「お寺は一体何をやっているのだ!市民・県民の気運が盛り上がっている時にこそ、 できるだけ早く本堂・大玄関の再建に着手すべきだ。 財界の人達も今の状況を不甲斐なく思っている。」 という意見が総代より出ました。 この心強い発言に押される形で一気に「本堂・大玄関再建着手」が決議されました。 |
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いよいよ本堂・大玄関の設計が始りました。 焼失した本堂は、桧皮葺き入母屋造り、間口11間× 奥行7.5間と、とても大きな木造建築でした。 |
![]() 旧本堂で行なわれた法要の様子 |
| また、大玄関は桧皮葺きの唐破風屋根を持つ優雅な 建物でした。本堂・大玄関共に復元が基本ですが、 多少間取りに変更が加えられる予定です。 |
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さて、本堂・大玄関共、写真はたくさん残っているのですが、いざ図面化 するとなると・・・ 庫裡については、焼失した庫裡が松島の国宝・瑞巌寺庫裡を参考にして 建てられた事が幸いにも判明したので、修理報告書を入手し設計図を 完成させました。しかし、本堂については不思議なほど情報がありません。 誰が造ったのか?どんな建物を参考にしたのか?はたまたオリジナルなのか? 勾配のゆるい優しい屋根の形、軒の高さと軒の深さの比率、欄干もない 濡れ縁、直方体の石を積んだような階段・・・。 焼失した本堂はあまり類例のない外観でした。 設計に着手するためのヒントを求めて南禅寺、妙心寺を訪ねましたが、 その甲斐はありませんでした。 もしかして・・・という淡い期待を持って再度松島の瑞巌寺も訪れました。 しかし、どこにもそのヒントは見当りませんでした。 |
| ところが2005年10月、偶然、鎌倉の円覚寺の方丈の写真を インターネット上で目にしました。 「これは似ている!」 2005年11月12日 早速、永保寺の虎山事務長さんにご紹介頂き、野村と小栗を連れ円覚寺を訪れました。 そして、円覚寺方丈の前で、持参した写真を見比べてみました。 |
![]() 円覚寺は瓦葺きですが焼失した本堂の外観は本当によく似ています。 これは同じ大工が造ったか、写しだなぁと確信しました。 ![]() ただ、軒反りは永保寺本堂のほうがきつくて、シャープな感じがします。 |
| 当日は円覚寺の許可を得て、今までよくわからなかった所を 目で確かめ実測もさせてもらいました。 「本当にありがとうございました。」と礼をいう私達に、 永保寺で修業をしたという輿(こし)さんが 「永保寺再建のお力になれてうれしいです。」 その言葉に胸が熱くなりました。 |
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さて、円覚寺でお聞きした所に依ると、円覚寺方丈は昭和4年に再建されたそうです。 そして施工したのは、名古屋市の加納建築。 実は、永保寺の本堂は昭和9年に瓦葺きから桧皮葺きに変えられています。 そして、「加納建築は、伊藤平左衛門の一門の大工ですよ。」 と円覚寺と縁の深い社寺設計士さんが教えてくれました。 そうすると、焼失した永保寺本堂は、一世を風靡した第9代伊藤平左衛門 一門の宮大工によって建てられ、加納建築はその写しを円覚寺に造ったということか! (これはあくまで私の推論です) |
| 11月17日 多治見市文化財課から、 「解体した蔵から図面らしきものが入った函が出てきましたよ。」 と電話が入りました。 永保寺新書院でその函の蓋を開きました。函はブリキでつくった円筒形で 3本ありました。 中には青焼きの図面、和紙に描かれた図面が全く無造作に入っていました。 |
| 一函ずつ開けていきましたが、不思議なことに本堂に 関する図面は一枚も発見されませんでした。 |
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| ただ、庫裡を造った曽我棟梁が自ら描いたと思われる 彫り物の原寸図が出て来ました。 保存状態も良く、とても貴重なものだと思いました。 図面はデータに取り、原寸図は整理して保管することに なりました。 |
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